技術を身につけるために修行をしてきました。
そのような接骨院で修行を積んできた僕なので、
実際に開業するときの僕の技術としては、
ですが開業当時の僕は、
師匠の元で何症例も難しい外傷を診て学んできたし、病院勤務の経験もある。
全国大会出場レベルのスポーツ選手のケアも沢山経験しました。
自信とプライドの塊でした。
そんなわけで、
いざ自分で接骨院を開業した時も、今まで学んだことの腕試しだと言った意気込みで、
楽しみでしかなかったんです。
今思えば、世間知らずの、怖いもの知らず、とんでもない奴だったなと思いますね。
そしていざ開業してみると、
『思ってたのと違う・・・』
と言う現実が待ち受けていました。
僕の接骨院に来る患者さんは、外傷じゃなくて、
「先生、腰が痛くて歩くのが大変なんです。」
「先生、今ぎっくり腰しちゃったんですけど、診てもらえますか。」
「先生、今腕を上に挙げたら肩が痛くなっちゃって、前から五十肩はあったんですけど・・・」
といった患者さんの来院が多いのです。
来院数60名だったら、50名は慢性痛の方でした。
包帯を巻くのは湿布を止める程度。
あの寝る間も惜しみ、冷や飯まで食わされて習得した芸術的にまで極めた包帯法は・・・
全く活かされませんでした。
僕が師匠のところで修行していた時にきていた、
骨折とか脱臼、捻挫の患者さんはほぼ来ません。
つまり、世間のことを何もリサーチせずに、
まさに井の中の蛙状態だった僕は、
世間の流れから逆光したことをしていたわけです。
技術さえ磨けば、患者さんが足を運んでくれる、
と言う思い上がりも甚だしい考えの僕にに
大きな挫折と学びを与えてくれたきっかけになりました。
ここでようやく気づいたんです。
接骨院と言っても、怪我を治すところだという認識の方は少ないんだと言うこと、
そして、自分の院も怪我が治せるところだと知られていないことに。
そこで、僕もすかさず
「怪我だったら僕も診れるんでなんかあったら言ってくださいね」
と声をかけました。
が、
近所には整形外科が多く、病院に行けば薬も出るし、レントゲンを直ぐ撮ってもらえます。
怪我の状態がすぐ分かるし、昔の人は医者を信じる、
と言う環境に、接骨院は及びません。
自分の怪我の状態がいち早くわかるほどストレスレスな整形外科、
実際、僕自身も丁稚奉公した後に整形外科で4年間勤務した経験もありますが、
やはりその点接骨院とは違います。
その後も、足を捻挫して整形外科に言ったと話してくれる患者さんは多くいました。
開業してからはそんな状況も度々あり、
自分が想像していた接骨院像からかけ離れ、どんどん自分の自信と迷いが深まっていったスタートでした。
ですが、そんな時に、僕を大きく変えてくれた出会いがありました。
小学校4年生の時の友達のお父さんが接骨院の先生だったことが始まり
僕は、茨城県水戸市出身です。
水戸でも古くからある接骨院があるのですが、
僕はそこの接骨院の子と小学4年の時に友達になりました。
友達になったことで、その子の家に遊びに行くようになりました。
遊びに行くと、そこは自宅兼接骨院だったので
いつの間にか接骨院がすごく身近なものになっていました。
友達の両親、おじいちゃん(院長)、親戚のおじさんと家族で経営をしている接骨院でした。
この時はまさか自分が接骨院の仕事をするなんて
想像もしてませんでしたが、
これが僕の今の原点の場所になります。
友達の両親も僕のことを覚えてくれて、
仲良くなり、僕の第二のお父さんお母さんと言う頼れる存在になりました。
僕は、小学校4年生からミニバスケットボールを習い始めました。
接骨院のお父さん、おじちゃんと呼んでたんですが、おじちゃんは昔バスケットをしていたことから、
さらに僕と仲良くなりました。
僕たちが所属していたミニバスはなんと全国大会まで行きました。
僕は6番手なので、ベストメンバーにはあと一歩のところで入れませんでした。
中学に入り、友達は私立の学校に進学したので、少し接点がなくなりました。
そして、僕の人生の初めての挫折を味わいます。
全国大会にまで出た僕でしたが、ユニフォームを着て試合に出るのに2年かかりました。
なぜなら1個年上の先輩が引退するまではユニフォームを着れない暗黙のルールがあったからです。
実力で試合に出られないなら納得はいくものの、
変な伝統のおかげで、先輩であれば誰でも全員ユニフォームを着れる、ユニフォームが余ったら後輩が着るわけです。
なんじゃそれ。
なので、中学に入ってスタメンを取ろうと毎日厳しい練習をしても試合に出れませんでした。
しかも、ベンチの椅子にも座れない日々でした。
しかし、僕は諦めませんでした。
僕自身、執念深いところがあるので、一度決めたらやり通したい気持ちが強いところがあります。
でも、反面執念深くて、根を持つのがあるのがたまに傷で夫婦喧嘩の元になってます。
そして、ようやく自分たちの代になると
今までの制限されたストレスから解放された途端に、好き勝手な練習をし始めました。
基礎的な動きを習得しないままやっていたり、
体の成長に合わない動き、例えば、NBAスター選手の真似事をしたりしてました。
ですが、基礎ができていない僕にスターの真似事ができるわけもなく、
怪我することが多くなって行きました。
無知でしたね。
そこでまた、友達の接骨院に通うようになりました。
おじちゃんに怪我の原因を話すと、その度に怒られてました。
怒られながらも
バスケが上手くなるコツから、バスケで怪我をしたときの対処方法、
そして、僕自信が怪我をした時も、懸命に治してくれました。
僕はそそっかしい性格もあるし、バスケはコンタクトスポーツなので、ぶつかり合うことも多く、
打撲は当たり前、足首を骨折した李、前歯を折ったり、
怪我がめちゃくちゃ多くて、
休日も返上で治療してくれたり、夜遅くになっても対応してくれて、またご飯も沢山ご馳走になりました。
おじちゃんおばちゃんには本当にお世話になりっぱなしでした。
治療してもらうたびに、
バスケの説教もよくされてました。
感情的になってるのは3流選手だ、と怒られたし、
バスケが人より上手いからって潮位に乗るな、と何回も怒られてました。
悔しい気持ちもあったけど、
おじちゃんの話は深くて納得させられる内容ばかりで、何も言えませんでしたし、
今となると、感情で仕事することほど、意味をなさないなと感じることが多いですね。
おじちゃんは僕をエースではなく、リーダーとして教育してくれていたんだと思います。
そして、中学3年になると、茨城県の県選抜のコーチが就任してきました。
先生は27歳。
バリバリのスポ根先生です。
僕の一番苦手なタイプです。
何故って、殴られるのが怖いから。
案の定、しっかりと目をつけられ、毎日雑巾のように絞られました。
たった3〜4ヶ月の指導期間でしたが、非常に良くも悪くも思い出に残る時期でした。
まず、褒めない。けなす。手を出す。
最悪です。
しかし、この時期のこの先生のおかげでバスケットの技術・知識が身につきました。
やはりスポーツは頭でやるものだ。
と考えさせられた指導者でした。
中学の戦績は県ベスト8でしたが、リクルートとしては決していい成績ではないですね。
県一位の学校に行きたかったのですが、その年にその高校は全国大会で優勝していました。
まず僕に声がかかるわけないな、と思いました。
それ以上にそんな学校に入ったらまた試合に出れない日々が続くな、と思いその学校のオファーがあっても断ろうと思ってました。
結果話があったみたいですが、僕の知らない間にな話はなくなってました。
ですが、地元で県2位のチームからオファーが来ていました。
地元で、特待生として受け入れてくれるとのことでその学校にお世話になることにしました。
入学して1年生から試合に出してもらっていたので、
やはり体ができていないので怪我が多くなっていました。
高校の監督もスポ根だったので、「痛い仕草をした奴は使わねーぞ!」という監督でした。
怪我をしても痛くないフリをしていなくてはなりません。
監督の目指すバスケットは走り回るバスケット。
なので、練習はひたすら走りまくりのメニューです。
中には疲労骨折して離脱するメンバーもいました。
かくいう僕も、足首の捻挫を何回もしました。もう靭帯が伸びきっていてクセになってました。
その足首をかばっていると、今度は膝が痛くなってきました。
その足首と膝をかばっていると、今度は腰が痛くなってきました。
「もう限界!」と思い、日曜の練習後に友達の接骨院に連絡して駆け込みました。
「ありゃりゃ、バスケできる状態じゃねーな」とおじちゃんの感想。
「でも、あんたはそんな体でもどうせやるんでしょ」とおばちゃんの意見。
この人たちにはウソはつけません。なんでもお見通し。
怪我をしてもやるのが一流選手。
と勝手な解釈をしてバスケットをしていました。
今言えるのは、怪我をしない体を作る選手は超一流。
練習以上に体のメンテナンスが大切なのにそれを怠っていたのが怪我に繋がっていたと思います。
結局は最後は全身ボロボロの状態で引退しました。
大学に行ってバスケットを続けたかったですが、体のあちこちの状態を見ると、
大学行っても練習にもついていけないだろうな、とは感じていました。
そして、大学推薦の話はなくなり、その後の大学進学に失敗したことをきっかけに、
一度バスケをスパッと諦めました。
燃え尽き症候群です。
浪人して今度は勉強に人生を費やそうと思いました。
予備校に通いながら、高校OBの社会人バスケで少し体を動かす程度のバスケットはしていました。
しかし、情熱は今までほどはなく、将来に対しての不安ばかりが頭にありました。
その後自分の人生どうしようと露頭に迷っていた時、
友達の家の仕事に興味を持つようになったんです。
丁度同級生も専門学校に進学していて、「お前もこの道目指したら?」
という言葉に触発されました。
そこから、友人を通じておじちゃんとおばちゃんに事情を話し、思いの外快諾してくれました。
そして今度はこの道に入る際は、おばちゃんの方が全面バックアップしてくれてました。
今まで何年も接骨院に通っていたものの、実際仕事の内情を知る側になると、
予想以上に患者さんに気を配っていることとか、
治療技術の凄さとか、大変さとか、
その反面、
目の前で感謝されるやりがいの大きさとかを目の当たりにできました。
このことがきっかけで、
「この道を目指そう!」と言う気持ちが沸き起こったんです。
これが僕の柔道整復師の資格を取るスタートになりました。
埼玉にある接骨院で丁稚奉公で過ごしたこと
それぐらい緊張感に包まれる現場になります。
「うつ」とか「ノイローゼ」という言葉は知っていましたが、
多分僕はそのどちらかか、両方を患っていたかもわかりません。
しかし、そんな言葉もない時代。
お金もないし、寮なので、遊んで憂さ晴らしなんてこともできません。
埼玉には友人も知人もいないし、周りに携帯電話を持っている同期も少なく、愚痴ることすらできませんでした。
専門学校卒業と国家試験合格そして柔道整復師の免許取得
5年間の丁稚奉公卒業と新たなスタート
決断したら迷いなく行動する僕なので、
すぐに師匠に辞めることを告げました。
すると、
師匠「ああそう、次は決まってるの? 決まってないなら早く決めなさい。
その前に、拡大研修会で発表してもらうからレポートを提出するように。
テーマは自分で決めなさい。ただでは卒業させないから。」
という返答が返ってきました。
毎年2月に師匠たちレベルで集まり、その年に経験した骨折や脱臼など特に難しい症例を報告する会がありました。
師匠からは「最近の研修会は、自己満足的な報告会でマンネリ化してきているから、石川君が新しい風穴を入れなさい」
と言われました。
師匠らしいお言葉をいただき、レポート作成に取り掛かりました。
そのレポートは「スポーツ選手の足首の捻挫の早期運動復帰」について書きました。
師匠からも納得してもらって、ほっとした瞬間でした。
外部の先生、現役学生など70名以上集まり盛大に盛り上がりました。
全体の研修会の質疑応答も5組あった報告の中でも僕への質問が集中し、座長をしていた師匠からも、
「石川の質疑応答は最後に別件で受けますので、他にないですか?」
と促したところ、結局僕への質疑応答だけで借りていた会議室を30分近く延長してしまいました。
不安しかなかったレポートでしたが、結果一番盛り上がったので師匠もご満悦でした。
その後、その時参加した現役学生5人の中の1人が入門してきました。
そんな訳で、無事に師匠のところを卒業しました。
合間で次の転職先も探しました。
そして、埼玉県の所沢にある整形外科と縁があり、
そこに就職が決まりました。
そこに決めた理由は、
柔道整復師でも骨折や脱臼の整復をさせてもらえるからです。
整形外科でも医師が整復するところもあるなか、
柔道整復師がさせてもらえるところはなかなかありません。
これは貴重な経験ができるという理由から決めました。
師匠の背中に追いつくには、経験数を倍にするしかない!
その経験値を上げるには助手ではなく、施術者として骨折脱臼を扱うこと。
そして当たった治療に全面の責任を負うこと。
また、治療家として一皮向けた時期でした。
実際働いてみると、接骨院以上に患者さんの来院数も、
怪我の度合いも激しかったです。
すげーーーーの連続でした。
接骨院時代とは違った世界が待っていたのです。
まず、病院なのでレントゲン、エコーという素晴らしい機器が揃ってます。
勉強できる材料だらけです。
でも画像を読めなきゃ意味がありません。
なので、とにかく画像の勉強をしました。
分からない時はドクターに教えていただくこともできました。
なんてありがたい職場だろう。そしてみんなが優しい。
さらに、職場に女性が居る。
僕自信、男3人の兄弟、高校時代ずっと男子クラス(共学なのに)、
そして専門学校、職場共に男子ばかりの環境でここまできました。
女性がいる環境に慣れていない僕は、ちょっと照れがありながらも、
楽しく過ごせたことを思い出します。
出会う人々が僕を「先生」と呼ぶ。
当たり前ですが、「石川先生」という響きに感動していました。
師匠のところでは何故か資格を取っても「石川くん」でした。
話は戻って、受付や物療スタッフに女性がいてもやはり病院です。
予想外の病気の方もいました。
その時のドクターの診断や処置、対応を見ていると、
かっこいいなとか、医者ってすげーなって思ってました。
整形外科4年間在籍して学んだことと新たな道で待ち受けていた試練
修行時代から転職をして、あっという間の4年間。
この間に100症例以上の骨接ぎを経験させてもらいました。
この間、手術になってしまった骨折や脱臼もあります。
接骨院じゃ限界があることももちろん肌身で感じました。
そして、限界を知ったことで、接骨院で受け入れることができるレベルの骨折かどうか、
病院へすぐに送ったほうがいい状態かどうか、怪我だけで判断していいものかどうか
こういった判断力も磨けました。
そして、自分の腕にも自信がついてきました。
これは現在の仕事の場でも大きく活かされていると思ってます。
その後、今後自分で開業することを目標に、マネージメント能力をつけようと思い
次なる経験値アップのために転職しました。
タイミングよく、チェーン展開している整骨院の院長を探しているという話があったことをきっかけに、
僕は志願しました。
そこでは今までになかった新たな困難にぶち当たりました。
それは、人間関係です。
その院は、全部で7店舗をもつチェーン展開をしている会社でしたので、7店舗に配属されたスタッフが
それぞれ10名前後いるわけです。
そのスタッフ間で運営の一致団結、いざこざの解決、売り上げアップ、技術指導、といったことを
していかない立場となりました。
いきなり100名近くのスタッフをまとめることの大変さ、
戸惑い、そして、上司とのやり取りも、上司とスタッフ間を円滑にするなど、
思いも寄らない大きな壁でした。
一人一人の意見を聞いてもそれぞれ言い分があるし、
かといって、それを全て受け入れるわけにもいかない。
治療より難しい!!!
という世界でした。ただ、いろんな出会いがあったことで、人間関係で新たな構築ができたことは良かった面です。
今後の自分のスキルとして、大きな気づきと成長を身につけることができました。
そこでは2年間お世話になり、もう学ぶべきことは学べたと実感し、
開業の道へとスタートすることにしました。
開業してから気づいた世間知らずと僕の人生を大きく変えてくれた素晴らしい出会い
ここまで僕が接骨院で仕事をする理由について話してきました。
ここからは、いよいよ自分が今まで経験してきた自信たっぷりの経験を
生かすぞ!というところから、
予想外の壁にぶち当たり落ち込み悩み迷った話に移行し、
それがきっかけで今の僕がある感謝しきれないほどの素晴らしく大きな出会いについて話していきます。
その前に、まず僕が開業するきっかけを話します。
僕が、柔道整復師の免許を取得したあと、丁稚奉公時代の師匠の勧めで
柔道整復師の教員免許を取得することになりました。
そのため専門学校に通いました。それには2年かかりました。
無事に教員免許の試験を突破し、教員になりました。
ただ僕は教員になる気持ちはなかったので、特に教員の道へが進みませんでした。
僕の目標は開業して自分の治療院を持つことだからです。
その後、その学校で知り合った先生からいきなりオファーがあったんです。
「石川くん開業してみない?」と。
その先生は、家族で接骨院を経営していることで、すでに経営者でもあります。
その治療院の分院を開く予定があるとのことで、
僕の仕事に対する姿勢を見込んでくれたのか、分院をやってみないかと声を掛けてくれました。
思いも寄らないオファーでしたが、これは大きなチャンスだと思い、お受けすることにしました。
おかげで何から何まで完全バックアップしてもらいながら開業することができました。
スタッフも勢揃いですし、テナント、設備も完璧です。
元々接骨院運営のノウハウと資金と本院からの経験豊富なスタッフが揃った恵まれた環境でのスタートだったので、
何不自由ない状態でした。
そんな恵まれた状態でのスタートであり、患者さんも足を運んでくれて、何も不自由なかったんです。
でもなぜか腑に落ちないものを日々感じるようになってきたのです。
それは、怪我の患者さんが来ない。のです。
「先生、今日はここの腰のところが痛くて」
「今日は肩が痛くて」
このような訴えの患者さんが多かったんです。
今まで自分が経験してきたことが生かされない。
という、プライドでガチガチに固まった考えが邪魔をして、僕の理想像はどんどん崩壊していきました。
言われるがまま、痛い場所を手当てしてマッサージしてということを
なんとかやりました。
でも翌日には、
「先生また同じところが痛くて、、、」
と訴えるのです。
こんなことが続くと、これはまずい、手に負えない、こんな堂々巡りなことをしていても、
患者さんは良くならないし、意味がない。。。
と思うようになってきたのです。
どうしよう、何もできていない。
世間を見ず、自分の思い通りのイメージを予測しかできなかった自分を猛省した時でした。
と不安に襲われる中、また大きな救いの出会いがあったんです。
それが現在当院でメインで行っている施術、ゆがみ取りスパット療法です。
この出会いから一気に自分の考えが変わっていきました。
出会いは、再会とってもいいですね。
僕が専門学校で一般臨床医学の授業を教えてもらっていた先生との再会がきっかけです。
名前は鹿島田忠史ドクターです。
専門学校時代のクラスの同級生が、鹿島田先生から慢性症状の患者さんに適した施術を
習っていることと、もし良かったら一緒に学んでみないかという誘いを受けました。
ちょうど僕が迷っていたタイミングだったので、
僕はすぐさま、今悩んでいる現状を伝えました。
それだったら解決するきっかけになるだろうとアドバイスをもらい、学びがスタートしたのです。
鹿島田先生は当時、すでに教員は引退されており、
自宅兼診療所で、内科と癌の患者さんの治療にあたられておりました。
そして技術の勉強会も、その場所で行われています。
特に衝撃を受けたのが、癌の患者さんの治療の一環として、ゆがみ取りの施術を導入していることです。
癌とゆがみ取り?!
と一瞬考えてしまいましたが、
鹿島田先生からは、ゆがみ取りをすることで体の調子が整い、癌の治療成績も上がるということを話してくれました。
当時は全くの無知識の僕だったので、驚きしかなかったのですが、
学んでいく中で、そうだったのか!と思わされまくりました。
体のゆがみと病気は切っても切れない一番根っこの部分であることが本当によく分かりました。
また、直々に医師目線での治療の考え方や、現代の医学情報、治療のエビデンスなど、
最新の医学知識も学べるし、こんなことを勉強するといいよといったアドバイスもいただけることに、
大きな自信と安心感と先生に追いつこうとする向上心が芽生えました。
ここから、僕の接骨院での施術にも自信がもて、
患者さんへ話す内容も、医学的知識が深く折り混ざったものへと変わり、
患者さんから信頼と納得と、ゆがみ取り施術に対する理解度もアップしていきました。
正直、今まで来ていた患者さんは、ほぼマッサージを受けにきていた感じでした。
ですが、ゆがみ取りの技術を身に付けて以降、
マッサージを目的とした患者さんは、つまり慢性腰痛だったり、慢性肩こりだったりするわけです。
そのような症状の患者さんには、僕が学んでいるゆがみ取りの施術がピッタリなんです。
ただ、慢性症状であると、健康保険が使えません。
なので、自費での治療がメインとなってくるわけです。
けれどもこれは仕方がないことです。これが国で定められた決まり事ですからね。
今まで保険で安くマッサージが受けられるといった感覚でこられた患者さんには、自費になってしまうことをお伝えし、
それでも施術を受けていただける患者さんだけが継続という状況になりました。
もちろん、これで患者さんは一気に減ってしまいました。
ですが、接骨院にくる患者さんは、慢性の症状の方が多いこと、
慢性の症状に保険診療できないこと
この大きな条件をクリアするためには致し方のないことです。
ですが、このおかげで、慢性症状の患者さんの症状が回復していくという結果が出てきたのです。
以前までは解決できない問題だったものが、
解決する方向へ変わってきたということに、手応えを感じるようになったんです。
すると、よくなってきた患者さんから、その友達を紹介してくれたり、家族を紹介してくれたりと
紹介の患者さんが増えてきたんです。
患者さん自身も、自分の症状を改善しようという意志が高い方が多くなり、
僕自身責任重大であり、もっと勉強しなければという意欲もどんどん高まっていきました。
この状態になれたのは、僕も心から望んでいたことで、
ゆがみ取りの技術を身につけることができたこと、鹿島田先生との出会いは、
人生一の大きな転換になりました。
今でも勉強会に参加し、勉強中は先生から医学知識の質問責めに合って、しっかり絞られますが、
その後の懇親会は、最高に楽しいです。
この時間を逃せば、先生とフラットに話せることはないですからね。
とにかくお酒が大好きな先生で、お酒を飲めば饒舌になるので、そのチャンスを生かして普段聞けないことを聞きまくっています。
僕もよく喋ってしまうので、いまだにうるさいとよく怒られますが、この時間こそが僕が一番学べる時間だとも思ってます。
現在は、当院は腰痛専門の接骨院として行っていますが、
それには理由があって、
僕が腰痛持ちであることと、腰痛の患者さんが物凄く多いからです。
その腰痛とゆがみ取りの施術は、ものすごく相性がいいんです。
これもゆがみ取り施術を教えてくれた鹿島田先生のおかげです。
感謝の気持ちしかありません。
腰痛のために施術をしていたけれど、腰痛を治していたら体質改善していく患者さんが続出中

腰痛の患者さん専門で日々施術をしていると、患者さんがふと話してくれるんです。
「先生、この前ね内科に行ったんだけれども、〇〇が良くなってるからどうしたのって驚かれちゃったのよ。多分ここにきてるせいじゃないかと思うんだよね。」
といったことが結構あります。
患者さんからご報告いただいてことで多いものをまとめてみました。
- 内科の数値が良くなった
- 便秘、軟便が減った、楽になった
- 生理痛が減った
- 痩せた
- 蕁麻疹が落ち着いた
- 血圧が落ち着いてきた
これは僕が学んでいる骨盤矯正の考案者の医師が話していた、
『骨盤を矯正することは、体質改善にも効果を発揮する』ということを思い出し、そのことが確信に変わったんです。
なので、腰痛で通っていた患者さんは、腰痛予防はもちろん、それ以外に、病気予防、体質改善を目的として通う方が本当に多くなりました。
現在は予約の取れない接骨院として、嬉しい悲鳴をあげております。みさなんどんどん元気になっていきますからね。嬉しい毎日です。
船橋の二和向台で10年以上接骨院をやってきて気づいた患者さんが困っていたこと

僕は船橋の二和向台で10年以上やってきました
僕は船橋の二和向台で10年以上腰痛専門の接骨院をしていますが、正直僕は開業当初、怪我を治す接骨院を運営していました。
ところが開業して気づいた事、それは、患者さんは怪我よりも腰痛だったり肩凝りで悩む人が多かったんです。だからこそ腰痛に特化した施術をしています。
特に腰痛で困ってる患者さんはめちゃくちゃ多いです。10年経った今でも変わりません。むしろ増えてます。年齢層も確実に若い方も増えてます。
年間のべ5000人以上の腰痛を見てきた僕が気づいたこと

僕は2009年から現在の船橋市二和の地域で約10年以上腰痛専門で接骨院をしています。ここではそこで気づいたことについて書いていこうと思います。
では早速気づいたことですが、それは、腰痛の患者さんが非常に多いことでした。
しかもぎっくり腰の患者さん以上に多いのが、仕事をして腰が痛くなるとか朝腰が痛くて目覚めるといった慢性腰痛の人がめちゃくちゃ多かったんです。
この現状から自分が目指す柔道整復師の道とはちょっとかけ離れているなとは思いました。でも困っている人の役に立ちたいという思いから、慢性腰痛を治す方法を探しました。
そこで奇跡的に出会ったのが、僕の専門学校時代の恩師で医師の鹿島田先生でした。
鹿島田先生には今でも定期的にお会いしています。現在僕が行っている施術方法『ゆがみ取りSPAT(スパット)』の資格の更新で技術指導をいただいております。『ゆがみ取りSPAT(スパット)』とは、骨格のゆがみを正すと病気が改善するという治療法です。最新の医学知識や先生の研究成果などなど、常に貴重な情報をいただいています。
その情報をもとに、僕自身の患者様で、ただの腰痛ではない方や、接骨院レベルではない腰痛の方の鑑別診断などで本当に助かっています。
どういった治療をしているのか

どんな施術をしているのかは知りたいわね

僕が行っている施術は、骨格を矯正しています。でもよくある背骨をぼきぼきするような施術ではありません。
当院で行っている骨格矯正は、背骨をぼきぼきするような施術ではありません。といっても以前はその施術を行ったこともあります。
ですが、ぼきぼきする快感を味わえるものの、正直、施術の効果は長持ちしませんでしたね。そんな時に出会ったのが現在の骨格矯正です。
ちなみに機械は使いません。電気を使うといざ電気が使えないときに施術できません。これは一番僕が恐れていることです。
電気が使えなくても腰痛はしっかり出てきますからね。どんな時でも腰痛を激減させること、これが僕の信念の一つです。
この骨格矯正については別記事に書きましたのでそちらをご覧ください。
⇨年間1000人以上の腰痛の患者さんの施術をしている腰痛に特化した施術方法とは?!

へー、確かにこれは助かる。電気がないから施術してもらえないじゃ困るもんね。
機械を一切使わないで手で治します。患者さま一人一人のお身体をしっかり拝見して、その方にあった施術をしていきます。時に、体の歪みが原因でない痛みの方ももちろんいらっしゃいます。
その場合は、歪みを整える施術ではなく、筋膜リリースを行って、全身の筋肉の歪みを整えるだけのこともあります。
骨格が整った状態を維持できる体に変化できたら、あとはご自身に合ったセルフケアで、体はどんどんよくなっていきます。セルフケアの方法を一緒に探っていくことも、施術の一環です。
なぜ僕が腰痛専門家になったのか自分の昔の話

僕が腰痛専門になった理由は、、、
それは、腰痛で悩む患者さんがめちゃくちゃ多いからです。
そして、僕自身腰痛で苦しんだ過去が数えきれないほどあります。そしていろんな治療を受けてきました。
ちなみに僕は腰が悪すぎて腰に毛が生えています。毛の働きは大事なところを守る働きがありますよね。
と腰が弱い僕ですが、ちゃんと体の原理を学び、それを実践してるので、いざぎっくり腰をしても仕事を一日も休んだことがありません。これは僕の人生の中での数少ない自慢の1つです笑
特に得意分野は脊柱管狭窄症の施術です

これも単純に、腰痛の中でも特に脊柱管狭窄症の患者さんが多いからです。実際に診断されなくても、ゆくゆく脊柱管狭窄症になっちゃうんじゃないかって方もいます。
実際に、脊柱管狭窄症と診断されている患者さんに骨格矯正をしたことで、手術レベルの痛みを緩和させた経験は何例もあります。
なぜなら、脊柱管狭窄症の原因は、ほぼ骨格の歪みだからです。
そして、骨格の歪みを引き起こす原因となっているのは、日常生活習慣です。
そして、僕が行っていることは、骨格の歪みを改善するためには日常生活習慣からの改善とその方法をお伝えし、脊柱管狭窄症を自分でも改善できる方を増やしていくことです。
僕の理念、目標は腰痛をこの世から消し去りたいこと

これは僕が柔道整復師になった時から人の痛みを一日でも早く、元の通りに戻すことを使命としてきました。
その中でも特に腰痛の患者さんが多いことを知りました。そして腰痛の患者さんを楽にしたいという思いが強くなりました。
耐えない腰痛の患者さんを激減させること。これが僕の強い願いです。
腰痛が緩和してくるとともに得られるものとは?!

最後に、これも僕が10年以上腰痛緩和することに特化してきてわかったことですが、骨格矯正を継続していくと、腰痛も改善するし、さらに身体の中身もよくなっていきます。
なぜなら、身体のあらゆる不調は骨格の歪みが原因だからです。
不調の原因、骨格の歪みを整えると、腰痛だけじゃなく健康な身体を作ってくれます。見た目も中身も健康な状態を手に入れることができるんですよ。
まとめ

ここまで僕自身の想いを乗せた自己紹介をしてきましたので最後にまとめです。
- 腰痛のために施術をしていたけれど、腰痛を治していたら体質改善していく患者さんが続出している話
- 船橋二和地域で10年以上接骨院をやってきて気づいたこと
- 年間のべ1000人以上の腰痛を見てきた僕が気づいたこと
- 僕がしている施術内容
- なぜ僕が腰痛専門家になったのか
- 特に得意分野は脊柱管狭窄症の施術
- 僕の理念、信念、目標について
- 最後に腰痛が緩和すると言うことは一体どんなことなのかについて書きました
以上です。

腰痛は奥が深ですが、解決すればめちゃくちゃ健康な未来が待ってます。腰痛になったからといって落ち込むことはありませんよ。僕にお任せください‼︎
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こんにちは、あかり接骨院院長の石川です。 僕について 少し自己紹介します。
僕は水戸黄門で有名な茨城県の水戸生まれです。
有名健康雑誌に掲載された今話題のセラピストです。
専門は脊柱管狭窄症(実例:手術レベルの腰痛を手術無しで緩和100症例以上あり)。
20歳から怪我を治すことで有名な接骨院で5年丁稚奉公し大きな骨折や脱臼を治してきました。
その後4年間整形外科に勤務、手術レベルの指の骨折を手術なしで完治させてます。
現在は脊柱管狭窄症の施術と骨格矯正のセミナー講師もしてます。
ここまでの道のりは正直かなり険しかったですが、 この仕事が大好きな気持ち一心でやってきました。
詳しい自己紹介は以下に書きました。 ⇨ 石川院長の詳しい自己紹介
—————————————————————————————————————————
【船橋市二和東の施術場所】
・駐車場は近隣コインパーキングをご利用ください
【お問い合わせ】
腰痛専門あかり接骨院
腰痛に関する詳しい説明をつけた内容を
動画にしています。
ブログの中でもありますが、こちらでもご案内します。
そして、下記では、腰痛対策の方法や、私自身が学び深めてきた
包帯方法の動画再生リストを作成しました。
などなど、ゆがみ取りの施術を身につけたおかげで、自分自身がどんどん成長しており、そして患者さんの症状も良くなり、日々やりがいを実感しています。